7. 年代順記述 Cronologia

CIDIM 出版、Francesco Lombardi 監修による 「ニーノ・ロータ 20世紀音楽の内気な主人公」 について

7. 年代順記述 Cronologia

投稿記事by fadinard » 2014年11月16日(日) 13:23

年代順記述 Cronologia

1911 : ジョヴァンニ(ニーノ)ロータは12月3日の日曜日、朝の7時30分、ミラノはヴォルタ通り20番地に生まれる。母エルネスタ・リナルディ(1880-1954)はピアニストで、ピアニストで作曲家であったジョヴァンニ・リナルディ(1840-1895)の娘。父親エルコーレ・ロータ(1872-1922)は、評判の高い金融会計技術者で、ミラノのニコラ・モレスキ商業技術研究所で教鞭を執った兄ジョヴァンニ(1868-1928)とともに、事業において800年代最後に街中に育った大きな企業の要求にそって所属した。ジョヴァンニ・ロータは、エルネスタの妹、マルゲリータ・リナルディと結婚。このようにしてロータ-リナルディの二重の家族姓の交わりが始まった。

1913 : 弟ルイージ(ジージ)が生まれる。

1919 : 母は彼女の「ニーノの歴史」に、子供がすでにピアノで和音を付けたり即興で演奏することが出来ると記す:“ニーノ、8歳で、即興でピアノを弾き、自然に和音付けをする。鍵盤ではほとんどの彼の指も音程も正しい”。アレッサンドロ・ペルラスカ先生の記譜法のコースに入った後、「妖精ジーリアと魔術師ドッピオの物語」を作曲、自身の創作した同名のおとぎ話の伴奏用の四指ピアノの作品。

1921 : その時代は4年間だった初等教育のサイクルを終えたところで、学校への通常の出席をあきらめて、ミラノ音楽院へ進み、1921-22年の学期にジャコモ・オレフィチェの作曲クラスに入る。結果として音楽理論とソルフェージュのコースにも入る。

1922 : 一月に両親に連れられてスカラ座に行きリヒャルト・ワーグナーの「パルシファル」を観劇。ロータはそれを彼の人生で初めての重要な経験として記憶している:”….感動から第1幕全部を立って聞く;でも第3幕はもうそれ以上見ていられなくなり、家に連れて帰ってもらった“。家族の知り合い、シルヴィオ・パガーニが、聖ジョヴァンニ・バッティスタの幼児期を扱った聖劇のためのリブレットを彼に贈った。夏の間に父親エコールが早くして亡くなり、ニーノは、ソリスト、合唱とオーケストラのためのオラトリオ「聖ヨハネの幼児期」を作曲。母親はその作品の断片をペルラスカ先生に見せ、彼は上演の実現を請け負う。ニーノは音楽院に入学したが、12月には、彼の最初の作曲の先生であるジャコモ・オレフィチェのレッスンを休むようになる。作品カタログにはこの年にラビンドラナート・タゴールの詩による歌とピアノのための叙情詩「お前がランプを空に持ち上げた時」の作曲が記されている。この作品は、後に続く多くの他の作品同様、従姉妹(いや二重に従姉妹)のマリア・ロータ(1894-1961)、室内楽関係で著名な歌手、に捧げられている。

1923 : 4月22日、ミラノは盲人研究所において「聖ヨハネの幼児期」の初演が行われた。プログラムにはニコラ・ポルポラ、ラッファエレ・ロンターニ、ステファノ・ランディ、ジュゼッペ・タルティーニやガエタノ・プニャーニなどの音楽が用意されていた。最後のオラトリオは、壮大な声の力が要求されたソリストに加えて、混声合唱と子供の合唱という編成であった。幼い作曲家(まだ12才にもなってなかった)は、ニーノ・ロータ・リナルディと署名して、あたかも母方の祖父から続く音楽的繋がりの継続を望んでいるようであった。作品の成功は次週の2回の再演と、北フランスはトゥーロンという、あちら側での一回の上演の依頼という保証をもたらした。この新しいプロダクションのため、ニーノは夏の間にそのフランス語のリズム翻訳の用意のために作品を完全にオーケストレーションし直した。また、弦楽四重奏、オルガンと弦楽オーケストラのための「フーガ」と、ラビンドラナート・タゴールの詩による歌とピアノのための「私は歌うのをやめよう」、「なぜランプが消えるのか?」を作曲。同じくタゴールの詩による弦楽五重奏と声のための「呼び戻し」も作曲。息子ニーノとジージを連れたエルネスタと、聖母マリアの祝日に演奏の依頼を受けていた従姉妹マリアでのフランスへの遠征は、本当の意味での大きな分岐点であった。10月12日の夕べは、作品とそれを作曲した天才少年の成功のかなたに、世界的な間接的な並外れた人物として火薬を装填した。ニーノ・ロータ・リナルディは20世紀のモーツァルトだと世界中の新聞で書かれ、フランスの新聞は次の滞在先のパリまで追いかけて、公演のスターに密着して追い回した。パリにおいて母親は、オラトリオのスコアを見せるため音楽院の院長アンリ・ラボ氏を訪れた:好意を持って迎えられたがラボ氏の評価は厳しいものであった;1人の潜在的な芸術家の模倣の表現が生まれてこなくてはならないと話した。ミラノへの帰還は子供の将来について真面目な熟考を必要とした、このように早熟の才能がサーカス小屋での並外れた人物に姿を変えてしまう危険性は明白であった。

1924 : イルデブランド・ピッツェッティと連絡が取れ、ロータによる作品を見てもらった後、彼の年齢にとってノーマルな生活の規範が守れるならと、生徒として受け入れることを承諾した。バルナバ会修道士の経営するミラノのザッカリア後期中等学校に入学する。タゴールの詩による歌とピアノのための「輝け、おお炎よ」と「聞くがいい、おお心よ」を作曲。オラトリオの続き、同じシルヴィオ・パガーニの台本による「聖ヨハネの受難」を作業。
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Kazuo KOBAYASHI -fadinard-
Finita e' l'avventura, andiamo a letto a riposar,la notte dolce e pura al nostro amor sorridera'.

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